設立の経緯
軍が創設され、国土防衛の任務を遂行する中で、北朝鮮人民軍の局地的挑発や各地域での共産ゲリラ討伐作戦によって戦死した将兵たちは、当初ソウルの奨忠寺に安置された。
しかし、戦死者の数が次第に増加するにつれて、陸軍では墓地を設置することについて議論されるようになり、1949年末には陸軍本部人事参謀部がソウル近郊に墓地の候補地を探していたが、韓国戦争の勃発により墓地の設置問題は中断された。
各地域の戦線で戦死した戦没将兵については、釜山の金井寺及び梵魚寺に殉国戦没将兵安置所を設けて奉安し、陸軍兵站団墓地登録中隊で管理していた。
戦闘が激しさを増し、戦死者の数が増加すると、陸軍では再び陸軍墓地の設置問題が取り上げられるようになった。陸軍本部人事参謀部の主管のもと墓地候補地視察班が編成され、第1次として大邱地域、第2次として慶州地区一帯を視察した結果、慶州市の兄山江支流である川北対岸地域を陸軍墓地候補地として選定し推進していた。しかし、軍の上層部が現地を視察・検討した結果、偏在した地域であることから、
浸水の恐れが大きいと判断されるため他の地域を候補地に再選定するのが望ましいという結論に達し、いったん中止されることとなった。
国防部の局長級会議において陸軍墓地の設置問題が取り上げられた結果、陸軍墓地を設置すれば他の軍もそれぞれ軍墓地を設けなくてはならず、管理面で多くの予算と人員が必要となり、墓所管理の統一性も図れないなど様々な弊害が生じることが懸念された。よって陸軍墓地の設置はひとまず保留とし、3軍共用の総合墓地を推進することとなった。そして墓地の名称は「国軍墓地」とすることに決議された。
1952年5月26日、国防部の主管のもと、国軍墓地の候補地を選定するために三軍合同の視察団が編成され、1952年11月3日には軍墓地設置委員会が構成され、1952年11月から1953年9月までの11か月間に7回にわたり10か所の地域を視察した。
視察の結果、銅雀洞の現所在地を国軍墓地が候補地として選定され、1953年9月29日に李承晩大統領の裁可を受けて国軍墓地の用地として確定した。1954年3月1日に整地工事に着工し、3年間で墓域238,017㎡を造成、その後も段階的に1968年末までに広場99,174㎡、山林912,400㎡、及び公園行政区域178,513㎡が造成された。
軍墓地の業務を所管する国軍墓地管理所が発足し、1956年4月13日には大統領令により「軍墓地令」が制定され、軍墓地の運営及び管理のための制度的枠組みが整えられた。これにより戦死または殉職した軍人及び軍属が埋葬され、加えて殉国先烈及び国家有功者は国務会議の議決を経て埋葬が行われることとなった。
一方、韓国戦争によって多くの戦死将兵が発生したことに対応するため、それまで軍人中心であった軍墓地の埋葬業務は、1965年3月30日に「国立墓地令」により再整備され、愛国志士、警察官、郷土予備軍にまで対象が拡大された。これにより、国家と民族のために尊い人生を捧げ、国家発展に大きな足跡を残した方々を国民の名において迎え、その忠義と偉勲を子孫に永遠に継承・保存する民族の聖域として、「国立墓地」という地位を確立するに至った。
また、2005年7月29日に国会で議員立法により制定・公布された「国立墓地の設置及び運営に関する法律」に基づき、銅雀洞の国立墓地の名称は「国立ソウル顕忠院」に変更され、消防公務員及び義死者も埋葬対象に含まれることとなった。